代表挨拶

はじめまして。

千葉県我孫子市で自然素材の家を創って地域一番を目指す、

青山都市建設株式会社の、足立 剛です。

8歳と12歳の女の子を持つ、家では女子に囲まれ楽しく、

暮らすお父さんです。

私は小さいころから、父の(先代)背中を見て育ってきました。

確か、水曜日のみの休みだったと記憶しております。

土日は、稼ぎ時で朝から、夜遅くまで働いており、

当然住宅営業なので、

そんなスケジュールになります。

水曜日は、私が学校から帰るとお昼から晩酌していました。

家でくつろぐことが好きだった父は、家と会社の往復で

寄り道して帰ることはめったになかったと思います。

学校行事も、父は来なく、母が来ていました。

最も、当時は、今みたいに父親の姿は、廻りを見ても少なかったと記憶しております。

来れない理由も、わかっていましたので仕方ないと割り切っていました。

 

ただそんな、忙しい父も、盆と、暮れは、島根の田舎や、旅行には連れて行ってくれました。

その時が一番楽しかったです。

もともと、向上心が高く、家族の為と思い、独立して、不動産業を始めました。

当時の私は、もちろん将来のことなど考えたことはなかったと思います。

不動産、建設の言葉も、どのようなことをしているかも理解はしていなく、

私は、のらりくらり、学生生活を送り、アルバイトをたくさんしていました。

まったく家業も継ぐつもりもありませんでした。

 

しかし親戚の葬儀の時に、転機が訪れます。

その夜のお酒の席で、叔父が、

『アルバイトではだめだと、建築の「け」の字から、教えてやるので、うちに来いと」

叔父の会社は、島根県の出雲市で手広く、また忙しくしておりました。

何も解らない私は、工事現場の掃除、ゴミ片づけ、材料運び、側溝掃除

ロープの結び方など教わりました。

仕事ができないと、給料が上がらないので、解らないなりに、残業して

土日も働きました。

 

その時は、おかずが買えなく焼き肉のたれで、

ご飯を食べるなんて事もよくありました。

早く仕事を覚えて稼げるようになる。

このことを信条にとにかく頑張りました。

短い間でしたが、島根の叔父の会社を離れ、

千葉に戻りました。

 

戻ってきても、勤め先も決まらず、母親に相談しました。

「仕事を手伝いたいと」言いましたが、

「ケンカするからやめなさい」とのこと。

何でもやる約束で、父の会社に入れてもらいました。

しかし、不況のさなか、景気は悪かったですね。

少しでも経費をかけないように、賃貸の電球交換、キッチンの

コーキングなど簡単なものはできましたので、

職人さんの手を借りず自分でやりました。

 

土地がらみの仕事をしていると、売買の時など、リフォ-ム工事が

発生することも良くあります。

小さい会社でしたが、大きなリフォーム工事も頂くことも、多くなりました。

新築工事も、ぼちぼち契約を頂けるようになりました。

ただ、当時の家は、新建材の床、ビニ-ルクロス、で仕上げる

量産型住宅でした。

 

講習会、いろんな工法、仕上げ材料を学び、

この頃から自然素材の家が出来上がりました。

基礎の上の横の木 土台、柱、構造材は、無垢材で、

無垢の床、無垢のドア、塗り壁、わら畳、手に触れるところは

自然素材、本物の材料を使うようになりました。

 

シックハウスに被害に遭う方も多く、

24時間換気など義務化になった時期でした。

 

父と過ごした、20年はあっと言う間に過ぎ去りました。

よく、ケンカもしました。

また、怒られることもありました。

しかしそんな父も、病に倒れ、逝ってしまいました。

会社を経営していくのは大変ですが、それ以上に、

楽しいことも、ありますので、頑張ってやっております。

お引き渡し頃のオーナー様の喜んだ表情は、たまりません。

建築屋さんで良かったと思う場面です。

うちで、建てられて良かったねと、僭越ですが、申し上げております。

私は、父のDNAを受け継ぎ、私の会社を信頼して下さった

ひとり、ひとりのオ-ナ-様を大事にしております。

私の家族の家を創る真剣さで、オ-ナ-様の家づくりを、

お手伝い致します。

お住まいになる地元の建設会社に、家づくりを頼むのが

一番幸せだと思います。

また、将来に渡り家を守ってもらうことです。

笑顔で、心もいきいきする家を手に入れてほしいと思います。

                                                                                        代表取締役 足立 剛

 

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